最低限の労働で生きていたい。
正直、最低限の収入でいいからなにもしなくていい時間がほしい。
夢があるからそっちをやりたいっていうわけじゃない。
平均よりなんでもものすごく時間がかかるし、ひとよりずっと体力がないから、そのスピードで生活するにはフリーの時間がひとよりたくさん必要なだけ。
だから、フルタイムではたらきたくない。
最低限のアルバイトを疲れない程度にやって生きてたい。
それではだめなんだろうか。
34歳で
同じ年ごろのひととか同級生は、職場では重要ポストにいたり、家庭では結婚して子供がいるのが当たり前のような雰囲気になってて。
フリーターだと言うと、え?だいじょうぶ!?という感じになったこともあって。
わたしのこのやりかただと、だめなのかな。
将来、レギュラーで働いた職歴がないと収入を得られなくなって、くるしいのかな。
やりたいことといったら、カフェでたまにゆっくりお茶することと、レンタルで映画見ること、美術館めぐりくらい。
いまのところはただ、ぼんやりいのちを続けていたいだけ。
だめかな。
これからあとはおまけの人生。
30代で、のこりは余生って思っても、べつに悪いことをしているわけじゃないと思うんだ。
というのもわたしじしん これじゃだめだ、このままじゃ先々だめになる、先行き不安、ちゃんとしなきゃまずい、ちゃんと考えておかないとこわい、ってあたまばくはつしてるひとで。自爆。
でも 先なんて、まあなってみないとわからないもので。
まあわからないから不安なんだけど。
よくもわるくも、なってから考えればいいのかなって。
そうシンプルになれないからひとりで悶々とするんだけどね。でも。
とくにやりたいと思うことがいま無くて、というかなにもしたくないなら極力なにもしない時間を趣味としてキープできる生活をえらんでもいいのではと思う。
もちろん、「ふつう」と違うかたちでなにかやりたいと思うことがあるならゆっくりそれに取り組んでも何も悪くないし。
脳科学者の中野信子せんせいの動画をみてたら、こんなかんじのこと言ってた↓
ひとも生物として考えれば「生存」「生殖」がいちばんの目的だから、いままで生きてきたっていうことはもうそれだけで実績。だからそれ以上のことはもうおまけの人生。だから楽しんでほしい。楽しまないともったいない。
こういう考え方を、甘いとかそんなんじゃなにもできないとか言うひともいるんだろうなと想像するんだけど、わたしはとりあえずいま生きてるひととかいのちを全部、とにかく肯定するっていうことですごくいいと思う。
とにかく生きてることがそれで充分と思えてるうえで、何をどうやって達成するかとか何をやったら充実するかとかって、足していくんだと思う。
とりあえず生きてるだけで100点で。
そう思えないんだったらまずそう素直に思えるまではとりあえずひとのこととか考えずに、「余生」っておもいきって割り切ってみたらいい。
きっと余生はつづく。
意味とか価値がないことってない。
ああもうどうしようもないわじぶん。。っておもって
自分で自分を投げ捨てたくなる。
でもそんな自分でも生きてるので。
こんなふうなわたしも生きてるので、それ自体に価値というか、
こんなひとでも七転八倒しながら生きてていいんだと思うので。
だれかのなごみの種になれたらうれしい。
たまたま誰かが通りかかって、
なんだ、こんなひともいるんだなあって。
いろんなひとがいていい。
いろんな立場や状況があっていいから。
じぶんで自分を責めることは、しなくていいから。
たとえばわたしは、なにごとも決断にものすごい時間がかかる。
遅すぎて社会生活もままならないくらい。
地頭もよくないので、不器用でなにかとバカ正直に答えて損する。世間知らずなので生きてくちからが弱い。とりあえず日銭をかせぐだけでこの歳までずっとせいいっぱい。
なにをして生きていくのかなんにも決められず中年。定職に就いたこともない。
でも生きてるから。とりあえず。
生きてる、存在してる。これからも存在する予定でいる。
それだけで大事なしごとをしてると思っていい。
家から出られないひと。
日中起きれないひと。
周りの人とうまくやれないひと。
はたらくのが怖いひと。
ひとが怖いひと。
世の中のスピードについていけないひと。
いろんなひとがいるから。
こんなかんじのわたしも生きてますから。
ダメダメだと言われて、家族や親戚にえらい心配と迷惑かけてますが生きてます。
34歳無職でもとりあえずいのちは続けてますから。
どんなひとも存在していてね。
まずは、じぶんのなかの素直なきもちをぜんぶ認めてOK出してあげてね。
OK YES .
病気に逃げることについて。
病気に逃げ込んでいてダメなやつだ、とじぶんのことを思っていたところがあるとおもった。
でも、ふと、「病気にでもならない限り甘えたり動きを止めたり休んだりしたらいけない」「だからいっそわたしのこと病気だと思ってください!」
っていうことを無意識に思っていたのかな、とおもった。
病気だから、なにもできないから、こんなわたしを許して、!って
周りのひとに懇願してたような気がします。
それは、わたしがわたしに認められてないからなんだな。。
休んでいいよ、ダルくてもいいよ、そんな自分もいていいよ、って、心から思えないから、病気に逃げるしかなかったのか。
それってすごくマジメなんだ。
わたしはダメ人間じゃなくてマジメ人間だったのかも。
ヤル気がおきないのも、自然なことで、
それでいいんだって、許したい。
もう許そう。
そしたらほかの人のことをほんとに心から許せるようになるのかもしれない。
調子がいい日。
朝の不安感が弱かった。
なぜだろう?今後の対策のために昨日と今日のメモ。
・地元を離れている
・日中一緒にいる人がいる
・昨日リンゴ酢を飲んだ
・一昨日、昨日と、手続き関係を処理しに行った
・暦の上で休日
・昨晩、ひとりでお茶をした
・今日は朝から洗濯、部屋の物を整理、掃除機がけ
世間が休みだと気がラクなのかな。ということはありそう。
それと、この3日間は連休かつ、私もとりあえずやることはないから。。
世間に合わせる、ということが深く深くアタマに根付いてしまってるのかもしれない。
自分軸をとりもどす。
無意識に、まわりに判断をあわせるように教わってきたわたしには簡単なことじゃない。
でも少しずつ、少しずつ、自分がどうしたいか?いまなにをしたいか?小さなことから判断していけるようになっていこうとおもう。
じぶんはじぶんでいいんだ。
すこしもわるくないんだよ。
ゆっくりでいいから、じぶんを信じてあげよう。
不安と恐怖感への対応の備忘録。
今日、いつものすごい強い恐怖感がふとやわらいだので、その前にしてたことをメモします。
・15分くらい、歩く。呼吸を深くしながら。
・食べたくなくても、タンパク質と野菜を中心に、食べる。
・ちょっとだけがんばってノートを広げて、なにがこわいか書き出してみる。
そして、先送りできることとか今はまだその段階じゃないことは、棚上げしてそのままでよしとする。
・用事をつくって階段を何度か上り下りしてみる。室内でもいい。
・外にでかける。小さな用事をしに。
これらでけっこう感覚は変わるんじゃないかな、って思います。
でも、時期によると思う。
一年前、すごくつらくてのたうちまわってたとき、無理やり外を歩いてみても、ほとんど変わらなかったから。
嵐のピークには、震えて泣きながらうずくまるしかないのかもしれない。
でも少しずつ、出てみようかな、やめよかな、という気持ちになってきたら、焦りを和らげるために効果があるかなと、実感した。そんな日。