からだの反応を見れば、必要なものがわかるかも。
私はどきどきしやすい。
動悸と息切れがはげしくて、すぐ緊張する。
お薬で、それを抑えてる。
ずっとそれがいやで、こわくて、この一年とくにすっごくつらかったんだけど、
phaさんの本を今日読みかえしてたら、
ふと、からだの緊張と苦しさがゆるんだ瞬間があった。
そのときの私は、ずーっとずーっと、地元での療養を終わらせて求職者訓練受けなきゃ、これから自活しなきゃ、でもこわい!泣きたいくらいこわい!働くのこわい!生きてるのつらい!という気持ちでいっぱいで。
でも、こうしたらいいかな、という具体的なものを見たり思い描いたりしたときに、そんなプチパニック状態になるんだったら、それはじぶんの求めるものじゃないってことなのかな、と思った。
phaさんは本の中で言う。
人それぞれの価値基準があって、それはぜんぜん別のもので、自分と自分以外の人たちはネコやイヌやヤギみたいに別の生き物だと思ってるらしい。
(持たない幸福論/pha)
だから人と比べても意味はないって。
人と自分を比べることは不幸のもとにしかならないって、なにかで読んだことがある。
それより自分がなにで幸福感を得られるか。
何してるときに安らぐか、たのしいか、充実感があるか。
それがみんなちがうもので。
似てるひとがいるならその人たちと居てもいいんだ。
自分の価値は、きっとそのなかにあって。
それで、からだが緊張したり焦ったり、追いつかなきゃ!って思ったりすることは、本当に自分に必要なことやものや、仕事なのかなって思い直してみた。
病的に緊張することなら、じぶんのからだが拒否してるのかもしれない。
すごく緊張するけどやってみたい!って思うことならそれはそれでそのひとのチャレンジなんだと思う。
でもそれが、つらいだけなら、他をあたってみてもいいんじゃないかな。
時間がかかっても、いいんじゃないかな。
じぶんのペースで、いいんじゃないかな。働くのも。
存在したくない。そう思うとき。
存在したくない。
そんなきもちが満ちてる。
ちょっとだけ、おもってみて。
あなたは、存在してていい。
そこに、いていいよ。いつも。
いていいよ。どんなじぶんも。
無条件だよ。!
いていいよ。
いていいよ。ここに。いていいんだよ。
生きててね。
そこで。ここで。
どこでも。
だいじょぶ。味方だよー。
なにもできないことにも意味があるとおもう。
生産的なことはなにもできないでいます。
なにかしなきゃ、でもなにをしたらいいのかさっぱりわからない。
わからないで、家事の手伝いも、いまなにをしたらいいか、とか、わからなくて、どんどんこなす母のとなりにいて自信をなくすばかり。
動悸がして不安で頭がいっぱいで、情けなさで食欲もあまりない。
でもね、生きてるから。
それでも、生きていていいんだよ。
それでぼんやり思った。
なにもできないじぶんでも、親は受け入れてくれてるんだってことを、いま、確認しに来てるのかなって。
これまでそう思えなかったから。、具合わるくなって、いま確認する特別なじかんなのかも。
ただ、わたしが存在してるってことで喜んでくれるひとやものごとがある。
誰でもきっとそうで。
わたしは、あなたにいてほしいよ。
そこに居てくれるだけでほっとするよ。
くるしいのによくがんばって生きてるね。
なかなか踏み出せないね。
うまくいかないこともいろいろあるけど、
わたしは、あなたがどんなかたちでも生きててくれたらそれで満たされる。
あなたのペースがあるから。
ぜったいに大丈夫になってるから。
いままでのぶん、たくさん自分を許そう。少しもわるくないんだから、ね。
味方。わたしは。
生きにくさをプログラムして生まれたひともいる。
会計士のしごとをしている、デキるひとである兄が、
一年近くもニートしてるわたしに、精神科の就労支援と生活保護をすすめてきた。
母を通じて。
心配されてるのかな、と受け止めておこう。、じぶんのこころが折れないために。
迷惑をかけたくないとおそらく思って自殺するひとが多いと、本で読んだ。
しぬよりは、まだ迷惑をかけるほうがいい。
生産性で言ったら、ゼロのわたし。
コストで言ったら、むしろマイナス。
でもそれは、経済でみたら、というだけだから。
いのちの価値でいったら、ほんとはみんなおなじ。
わたしはわたしをつい、生産性の価値基準で見てしまって、じぶんを攻撃する。
でもだまされたらだめだよ。
生産性のないいのちは消えていい?
そんなことはないはず。
じぶんに聞かせてあげるように、
祈るように、
そう思ってる。
細い糸をたぐるみたいに。
不安な時間の過ごしかた
どうしようもない不安なきもちで、ざわざわして落ち着かないときってある。
そんなときの過ごし方。
理由がはっきりわからないけどどうしようもなくさびしい、
すごく焦るけど動けない、
なぜだかこわくて、ふあんで、ひとりになると泣きたくなる、そんな時間。
この苦しさの根っこは、自分が自分を認めてあげられてないからだ。
さびしくて、そばにいてほしいのは、誰かじゃなくて自分なんだよ。
あなたが、あなたの中の小さなあなたをほったらかしにしてるんだよ。
どんなに休んでも、気晴らしをしても、あなた自身のなかの、へろへろで泣いてるじぶんのとなりに座ってあげないと、何度でも不安になるんだよ。
ごめんね、追い詰めてごめんねと自分にあやまって、
大丈夫だよって安心させてあげて、
自分で自分をぎぅ、と抱きしめてあげて下さい。
大丈夫だよ。ごめんね。もう責めないよ、って。
そして、不安にさせる奴はもう追い出したからね、って言って下さい。
だいすきだよー。って包んであげて下さい。
ひとはみんな、じぶんを大事にしていいんだよ。
なにがあってもなくても、じぶんを見る目をあたたかく。
少しずつでいいから、じぶんはひとりしかいないから、大事にしてあげてほしい。
何かしなくても価値はかわらない
なにかしなきゃいけないのかな
人生をつかって、なにか。
たくさん盛って充実感のありそうな人生もある。
でもひとつふたつとか、
ばあいによっちゃほとんどなにものせない人生があってもかまわないんじゃないかって。
女として生まれてて、結婚・子育てないのなら、仕事を極めていないとだめかな。
仕事もしたいことがない。
子供も産みたくない。
結婚の予定もない。
どれも、しあわせとつながってるように思えないというか。
無理にこのどれかにコミットしたくない。
機会があればこのうちのどれかと深く関わることになるかもしれない。
でもどれもしたくない。
そのほかになにか?と考えてみるけどなにもない。
できればなにもしたくない。
眠っていたい。
わたしをゆるさないわたしと居た。
わたしの最大の敵はわたしをこき下ろそうとするわたしだ。
これまで長い間ずっとそうだったし。
でもそれは間違いで、
おカド違いな発想で、
とんでもないとばっちりなんです。
わたしはなにもしてないし。責められるようなこと。
それはわかってたんだけど、
わかってたんだけどわかってなかった。
だって、理解したつもりでやっぱり責めてたから。
っていうことが、きのうふとわかった気がした。
これを定着させていかないとな。
小さい頃の自分に謝って、
もういいよ、ゆるしてるよ、と言ってぎゅーとしてあげて。
それもずっとやってたんだけどなかなかピンときてなかったのかな。
そう。
理屈はわかるんだけどカラダが反応しないというか。
だけどそうさね、なんどでもなんどでもちょうせんするんだ。ゆるすことと、自分は100点なんだってことに気付くことに。
いつなんどきでもぼかぁ100点なんだな。
だれもわたしを責めちゃいないんだな。
わたしがわたしを責めてたから、親に、しんせきに、きょうだいに、世間に、責められ蔑まれてるように感じてたんだな。
わたしはわたしをゆるす。
わたしを差別するわたしとは、もう、そろそろお別れ。縁切り。
ばいばい。ありがとう。
もう役目は終わったよ。
おつかれさま。